「さよなら絵梨」の時系列について

昨晩、誤って消してしまったので、また書く。

・いつの出来事なのか

2015年春、勇太(中1)の誕生日で始まる。

2018年2月〜12月勇太(中3?)母死去。

2018年4月〜12月勇太(高1)文化祭で1回目上映

2019年〜2020年勇太(高2?)絵梨死去

2020年勇太(高3)文化祭で2回目上映

2040年?勇太?(中年)絵梨と再会


確実なことは、母は2018年1月時点では生きており、絵梨と映画漬けの日々が始まったのは2018年9月以降ということ。

・2018年1月母生存の根拠

スマホ等で拡大しないと見え難いが、PC画面には2018年1月30日のファイルが読み取れる。

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この画面は後に触れる通り曲者なのだが、2018年1月現在、優太は中学生なはず。


・映画漬けの日々開始が2018時9月以降の論拠

これも見え難いがレンタル店で「君の名前で僕を呼んで」に新作札が付いている。

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「君の名前〜」のレンタル開始日は2018年9月14日とある。

https://store-tsutaya.tsite.jp/item/rental_dvd/164075747.html

そして、新作札が付く期間は三カ月とされている。

https://ssl.help.tsite.jp/faq/show/43347?site_domain=qa-store


そして、二回目の自殺前動画で一回目の自殺企図は高校生とあることから、2018年の一年間に母の死去と中学卒業・高校入学があったことを確定出来る。


残る問題は12歳中学生と二度目のPC画面のニ点。


・12歳中学生問題

女性で子持ちでプロデューサーにまで昇り詰めた母は、家庭においては毒親の部類で、息子に無関心で年齢も無頓着なため、12歳の誕生日ケーキを買ったのだろう。

これについては、下記でも書いた。


https://kjrio.hatenablog.com/entry/2022/04/13/020045


・PC画面問題

既視感のある問題だけど、不可解さが残っている。

母死去まえの不鮮明なPC画面が作中でもう一度出て来る。

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見比べれば分かるように同一画像を使い回しているのではなく、同じmp4ファイルを並び方を変えている。

絵梨の死去後に絵梨の映画の編集を繰り返したファイルとして描写しているが、

これらのファイルには母を撮ったファイルであるはず。

「君の名前〜」のレンタル開始が2018年9月以後なため、2018年1月のファイルが絵梨の映画であるはずがないのだから。

そこでkansoさんの「この映画そのものが数週間ないし数ヶ月で撮られたもの。」説を取れば、不可解さは幾分解消されるが、

https://www.kansou-blog.jp/entry/2022/04/12/185739

何故説明と画像が一致させなかったのという疑問は残る。

絵梨の映画編集を繰り替えたしたという独白は嘘、フィクションであることを示しているのではないだろうか。

フィクションが始まっている印として説明と画像を敢えて一致させなかったのだろう。

時間の経過も嘘、中年の勇太も吸血鬼の絵梨もいないということになる。

父と生前の絵梨の演技なのだろう。


・時系列 結論

2015年春、勇太(中1)の誕生日で始まる。

2018年2月〜12月勇太(中3?)母死去。

2018年4月〜12月勇太(高1)文化祭で1回目上映

2020年勇太(高3)文化祭で2回目上映

2020年〜「さよなら絵梨」(爆破版)完成


自由と独立と例のアレを守るために(藤本タツキ「さよなら絵梨」)

藤本タツキ「さよなら絵梨」を読んで久しぶりに書きたい衝動に駆られたので書く。

この物語は勇太が自由と独立の象徴っぽい「ノラネコ」への憧れとそれを阻む二人の圧政者から自由と独立を取り戻す物語だと思う。この物語を通じて現代の圧政者から自由と独立と漫画の一表現である例のアレを取り戻すことを目指していると誤読している。

 

一人目の圧政者は毒親の母。

息子の年齢にも無頓着で、自分の映像作品作りの道具として、中学三年間拘束し、学校さえも休ませた。

母が消すように促した野良猫の映像を映画に加えたのは、母への抗議であり、自由と独立の象徴っぽい「ノラネコ」への憧れの表明でもある。

強者であったカマキリを弱者の蟻が襲っているように、弱者の勇太が強者の母を襲う手段は、死の瞬間を撮影して欲しいという母の願いからの逃走であり、爆破であった。

なぜ、爆破でなければならなかったか、これは三人目の圧政者とかかわってくる。

 

二人目の圧政者は絵梨。

 

映画のトレーニングを強い、高校三年間2728時間もの動画を取らされた。

シナリオは任されたが肝心なところで絵梨の目的である死期を撮影させるように誘導している。

母同様、優太を撮影のための道具としか見ておらず、自由を奪い拘束し、優太の望む交際には応じない自己中心的なあり方をしている。

絵梨のそうしたあり方に美しい幻想を抱くことも可能だが、死後も自分の人格を維持するためという利己的な目的のための映像だったことを知り、圧制者の絵梨をその根城もろとも爆破した。

 

三人目の圧政者

優太の自由と独立を奪った二人の圧政者をなぜ爆破したのか。

それはウクライナ人から自由と独立を奪おうとしている圧制者への抗議だ。

「爆破」というシリアスにもコミカルにも幅広く使える豊饒な漫画表現が、自由と独立を奪うために現実において使用している爆破に引き寄せらていることへの抗議でもある。

間違っても「爆破」という表現が自粛されるような世の中になってはいけないし、そうならないために現実にエンタメ作品である本作「さよなら絵梨」が楔となり、豊饒な漫画表現を現実に引き寄せられることから守っている。

自由と独立と「爆破」表現の守護者として藤本タツキは、この作品を今書かなければならなかったのだろう。