藤本タツキ「さよなら絵梨」を読んで久しぶりに書きたい衝動に駆られたので書く。
この物語は勇太が自由と独立の象徴っぽい「ノラネコ」への憧れとそれを阻む二人の圧政者から自由と独立を取り戻す物語だと思う。この物語を通じて現代の圧政者から自由と独立と漫画の一表現である例のアレを取り戻すことを目指していると誤読している。
一人目の圧政者は毒親の母。
息子の年齢にも無頓着で、自分の映像作品作りの道具として、中学三年間拘束し、学校さえも休ませた。
母が消すように促した野良猫の映像を映画に加えたのは、母への抗議であり、自由と独立の象徴っぽい「ノラネコ」への憧れの表明でもある。
強者であったカマキリを弱者の蟻が襲っているように、弱者の勇太が強者の母を襲う手段は、死の瞬間を撮影して欲しいという母の願いからの逃走であり、爆破であった。
なぜ、爆破でなければならなかったか、これは三人目の圧政者とかかわってくる。
二人目の圧政者は絵梨。
映画のトレーニングを強い、高校三年間2728時間もの動画を取らされた。
シナリオは任されたが肝心なところで絵梨の目的である死期を撮影させるように誘導している。
母同様、優太を撮影のための道具としか見ておらず、自由を奪い拘束し、優太の望む交際には応じない自己中心的なあり方をしている。
絵梨のそうしたあり方に美しい幻想を抱くことも可能だが、死後も自分の人格を維持するためという利己的な目的のための映像だったことを知り、圧制者の絵梨をその根城もろとも爆破した。
三人目の圧政者
優太の自由と独立を奪った二人の圧政者をなぜ爆破したのか。
それはウクライナ人から自由と独立を奪おうとしている圧制者への抗議だ。
「爆破」というシリアスにもコミカルにも幅広く使える豊饒な漫画表現が、自由と独立を奪うために現実において使用している爆破に引き寄せらていることへの抗議でもある。
間違っても「爆破」という表現が自粛されるような世の中になってはいけないし、そうならないために現実にエンタメ作品である本作「さよなら絵梨」が楔となり、豊饒な漫画表現を現実に引き寄せられることから守っている。
自由と独立と「爆破」表現の守護者として藤本タツキは、この作品を今書かなければならなかったのだろう。